世界一周の夢と有力な兵器 大陸の鉄道網には2つの顔があった【鉄道と戦争の歴史】
鉄道と戦争の歴史─産業革命の産物は最新兵器となった─【第11回】
明治44年(1911)7月にロンドンで開催された「第6回国際連絡運輸会議」では、イギリスからカナダ、日本、そしてシベリアを経由して世界一周を楽しむ「世界周遊券」と、日本と欧州を結ぶ「東半球一周周遊券」を設置することを決定された。この時代、ついに鉄道による世界一周が実現したのであった。

1918年、ウラジオストクでパレードを行った各国の干渉連合軍。欧米や日本など多くの国は、共産主義国が成立することに反対であった。革命軍にはドイツやオーストリアの捕虜も参加していた。
明治45年(1912)6月、ロシアがウラジオストクから東清鉄道を経由、シベリア鉄道へと乗り継ぎ、ヨーロッパに向かう「欧亜国際連絡列車」の運行が始めた。だが日本としては神戸、もしくは門司から大連に渡る日満航路の定期船に乗り、大連からは日本政府の後ろ盾で設立された、半官半民の南満州鉄道(満鉄)を経由し、新京(現在の長春)で東清鉄道に連絡、さらにシベリア鉄道へ入るルートに乗客を集めたかった。国際連絡線としての地位を確保できなければ、満鉄は単なる地方鉄道となってしまうからだ。

新京特別市は満州国の首都であった。駅の表示は漢字、ローマ字、キリル文字で記されていた。これで日本語、中国語、英語、モンゴル語、ロシア語に対応できた。まさに国際都市の顔といった存在であった。
一方のロシア側も敦賀からウラジオストクに渡り、前出のコースをたどるルートを寂れさせるわけにはいかないので、新京での接続を故意に不便にするという妨害工作に出た。そこで日本側が妥協案として設定したのが、東京(新橋)と金ヶ崎(後の敦賀駅)の間を直通で結ぶ、豪華な1等寝台車まで備えた国際連絡列車の設定であった。こうして日本側が利便性を高める代わりに、ロシア側にも新京での乗り継ぎがスムーズになることを求めた。
これにより日本からパリ・ロンドンは約2週間の行程で結ばれた。太平洋航路〜北米横断鉄道〜大西洋航路ルート(1カ月弱)や、スエズ運河経由の海路(約1カ月半)に比べて大幅に短縮された。まさに鉄道によって、日本とヨーロッパが近づいたのである。

天然の良港として、江戸時代は北前船が盛んに出入港していた敦賀港。ロシアのウラジオストクとの間に定期船が就航して以降、重要港湾としての地位を確立している。
ところが大正3年(1914)7月、ヨーロッパで第1次世界大戦が勃発。気軽に旅行を楽しむのが難しくなった。この戦争では、自国内で戦闘が行われることがなかった日本やアメリカ、さらに中国大陸などには好景気がもたらされた。日本は日英同盟のよしみで山東半島青島にあったドイツ軍の基地を攻略。さらに太平洋に出没するドイツ艦を捕捉・攻撃している。そして連合国船舶の護衛のため、太平洋だけでなく地中海にも駆逐艦を派遣した。
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